【アロマテラピーの歴史】
◆古代文明における香りの役割◆
古代では、香りは薫香や浸剤というかたちで宗教儀式や医療用、化粧用などに利用されました。薫香は、焚いて煙を出し、その煙を吸う方法です。香料をあらわす英語「perfume」、フランス語「parfum」は、ラテン語の「Per fumum」(薫ずる、煙を通して)に由来しています。浸剤は、油脂や水などに成分を浸出させたもので、身体に塗る香油などに利用します。
香りの利用が歴史的に認められるのは、今から5000年以上前にまでさかのぼります。紀元前3000年ごろのメソポタミアの粘土板に、世界最古と言われる薬の処方が発見されていますが、薬効があるとされる植物には、現在でも香料として利用されているものが多く見られます。エジプトでは、神殿で乳香(フランキンセンス)や没薬(ミルラ)を焚いて神に捧げました。残されている壁画に香油の壺を神に捧げている人物が描かれていますし、パピルス文書には植物の香りの使用方法などが記されています。エジプトの特権階級のミイラには、ミルラやシダーウッドなどのさまざまな香料がふんだんに使われました。
古代の香料の中でも最も重要視されていたものが、乳香(フランキンセンス)と没薬(ミルラ)です。この二つは樹脂で、加熱すると煙とともに香りが立ち上ります。保存しやすいこと、常温では香りがあまり発散しないため保存中に香りが失せにくいこと、大変高価なことなどにより貴重品として扱われ、権力を握ったもののみが使うことを許される象徴的な香りとなりました。
◆西洋医学を創始した人々◆
西洋医学は古代地中海世界、すなわちギリシア・ローマを中心とした国々で産声をあげました。
ヒポクラテスが医学、テオフラストスが植物学、プリニウスが博物学、ディオスコリデスが薬学、ガレノスが体系的な学問としての医学や実験生理学、製剤法の基礎を築きました。
★ヒポクラテス(紀元前460~375年頃)
医学の父(祖)と呼ばれるヒポクラテスは、コス島で医術を行う家系に生まれ、コス島を中心とする医学アカデミーを代表する名医となりました。
彼は、それまでの呪術的な手法をしりぞけ、「症状を正確に観察すること」、「病気よりも病人の状態を全体としてとらえ、経過を正しく予知しようとすること」、「病気を環境条件や体質の不調和からおこってくる自然現象としてみること」など、現代にも通じる医学の基礎を築きました。香油を使ったマッサージも推奨しています。アテネとスパルタがギリシア世界の覇権を争ったペロポネソス戦争(紀元前431~404年)のときには、アテネをはじめとする諸都市を疫病から救い、アテネの市民権を得ました。85歳以上で没したといわれていますが、定かではありません。
『ヒポクラテス全集』は、紀元前3世紀初めにアレクサンドリアの学者や図書館員によって編纂されたもので、ヒポクラテス自身の著作とコス学派の著作、さらにクニドス学派の著作が含まれています。流行病や骨折について語られたものの多くはヒポクラテス自身のものと考えられ、彼の考えをうかがい知ることができます。
★テオフラストス(紀元前370~288/285年)
テオフラストスは古代ギリシアの哲学者・生物学者で植物学の祖といわれています。レスボス島のエレソス出身で、多方面で活躍しました。師であるアリストテレスの動物の分類にならって、植物の分類や系統だった研究を行い『植物誌』をあらわしました。
★アリストテレス
テオフラストスの師アリストテレス(紀元前384~322年)は、古代ギリシアの哲学者で、すべての物質は四元素(火・気・水・土)からできている四元素説を完成しました。古代で最大の学問体系を立て、中世スコラ哲学(中世キリスト教が、アリストテレスの体系に「神の絶対性」を接木したのが、「中世スコラ哲学」です。<11世紀>)をはじめ後世の学問に大きな影響を与えています。著作も多く『形而上学』『政治学』『自然学』『動物誌』などがあります。アレクサンドロス大王の家庭教師でもありました。後世のイブン・シーナも彼の哲学を基礎にしています。
★アレクサンドロス大王(アレキサンダー大王)時代の東西ハーブの交流
アレクサンドロス大王(紀元前356~323年)は、紀元前336~323年に在位したマケドニア王国の王です。12,3歳のころから3年ほど哲学者アリストテレスに学び、19歳で即位しました。334年から東方遠征をはじめ、アケメネス朝ペルシャ帝国を滅ぼし、中央アジア、インド北西部に至る広大な世界帝国を建設しましたが、志半ばに32歳でバビロンにて病死しました。
彼の東方遠征と大帝国建設をきっかけとして東西に活発な文物交流の場がひらかれ、ギリシアとオリエントが影響し合うことによってヘレニズム文化と呼ばれる豊かな世界文化の時代を迎えることになり、東西のハーブやスパイスも盛んに取引されました。
高価な香料などを惜しげもなく使うアレクサンドロスを家庭教師であるアリストテレスが諫めて、そんな贅沢は世界を征服したあとにでもしなさいといったことに発奮したのが、東方遠征をはじめる動機のひとつになったともいわれています。
★イエス・キリストと香料
イエス・キリストが誕生した時、星に導かれてやってきた東方の三博士(賢人)が乳香(フランキンセンス)・没薬(ミルラ)・黄金を捧げたといわれています(新約聖書マタイによる福音書2章11節)。乳香は偉大なる預言者、没薬は大商人、黄金はこの世の権力者を象徴しており、キリストは乳香(フランキンセンス)を選んだということです。キリストはまた、香油を人々の癒しのために使ったということが伝わっています。
新約聖書のヨハネによる福音書には、ベタニアのマリアが非常に高価なナルドの香油をキリストにそそいだという一説がありますが、これはチベットやネパールなどのヒマラヤ山脈の高地でとれるスパイクナルド(甘松香)という植物の根を植物油に浸けたものだと考えられています。マリアがそそいだ香油の量は326gほどで、その値段は当時の労働者の1年分の賃金に相当するほど高価な物でした。
★プリニウス(23/24~79年頃)
プリニウス(大プリニウス)は古代ローマの博物学者で、博物学の祖といわれています。イタリアのコモに生まれ、かなり若くしてローマに出て文学・法律・雄弁術を学び、軍人としてドイツに駐留したのち、文人として活躍しました。皇帝ウェスパシアヌス(9~79年)の信任が厚かったプリニウスは、高級官吏として財務官や海軍提督などの重職をつとめ、艦隊を率いてナポリ湾の基地に停泊中にベスビオス火山の大噴火にあいました。彼は調査と人命救助のためにガレイ船で駆けつけますが、ポンペイ近くで噴煙にまかれて最期をとげたといわれています。
大自然すべての生態に興味を抱いたプリニウスは、77年、全37巻の『博物誌』をあらわしましたが、これはほかの誰もがなしえなかった大規模な自然誌です。植物に寄せる愛情がうかがわれる大作は一級の古典として今なお読み続けられています。
★ディオスコリデス(生没年不詳・50~70年活躍)
ディオスコリデスはローマ時代の医師で、皇帝ネロ統治下のローマ帝国内で軍医としてはたらきました。広く旅して薬物を実地研究し『マテリア・メディカ』(薬物誌)をあらわし、薬学の祖といわれています。
『マテリア・メディカ』は植物・動物・鉱物万般の薬物を、特徴や薬効によって分類しており、収載されている植物は600種、薬物全体で1000項目にも及びます。ヨーロッパ・アラビア世界において16世紀にいたるまで広く利用されました。現存する複写本として『ウィーン写本』が有名ですが、これは400近い植物彩画を含む491枚にのぼる羊皮紙本で、512年に写本され、ビザンチン皇帝の皇女に献上されました。帝国陥落後、トルコ人の手に落ちてアラブ人、ヘブライ人などを経て、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世によって1569年に買い戻され、ウィーン帝室博物館に保管されました。
★古代ローマの公衆浴場
皇帝ネロ(37~68年、在位54~68年)の時代から、ローマは都市政策の一環として、火災を防ぐために数階建ての集合住宅の浴室設置を禁じ、公共の浴場を建設しました。それらの浴場はネロの浴場、ティトゥスの浴場、トラヤヌスの浴場など、皇帝の名にちなんだ名前がつけられています。
皇帝浴場は、熱浴室、微温浴室、冷浴室、プールなどを併設する豪華なもので、社交場としても利用されました。216年に完成のカラカラの浴場は1600人収容できる施設で、利用者は浴場内で香油を塗ったり、入浴後に花が敷き詰められた部屋で食事をしました。カラカラの浴場は今も遺跡としてローマに残っています。
皇帝ネロは暴君として知られていますが、バラ好きでも有名で、バラの香油を身体に塗らせたり、部屋をバラの香りで満たしたといわれています。ネロが妻の葬儀に使った香料は、ローマに香料を提供していたアラビアの年産量を超え(10年分以上といわれています)。香りは4キロ四方を満たしたといいます。その贅沢な暮らしぶりは、ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチ(1846~1916年)の『クオ・バディス』などにも描かれています。
★ガレノス(129~199年頃)
ガレノスは小アジアの文化都市ベルガモンに生まれ、幼少から十分な教育を受け、ことにさまざまな学派の哲学を学んだ医学者・哲学者で、皇帝マルクス・アウレリウス(121~180年)の侍医となりました。ガレンとも呼ばれます。
ガレノスはヒポクラテスを医学の神として高く評価し、ヒポクラテス医学を基礎として古代の医学を集大成し、自らの解剖学的知見と哲学的理論によって、体系的な学問としての医学を築き上げ、古代においてヒポクラテスに次ぐ医学の権威と仰がれています。
サルやブタなどの動物を解剖して。脳神経系、筋肉、骨、眼などについて優れた成果をあげ、実験生理学の基礎を築きました。人体解剖は行っていません。
生理学・病理学においては、肝臓・心臓・脳を生命の中枢であるとし、身体の機能を決定するのは温冷乾湿の四性質のバランスであるという四つの体液論を唱えました。それまでは空気が流れていると考えられていた血管には血液が流れていることや、心臓や意志の力とは無関係に動く筋肉(不随意筋)でできていることなども明らかにしました。
また、コールドクリームなどの製剤法の創始者としても知られています。ガレノスのコールドクリームは現在使われているクリームの元祖です。ミツロウを乳化剤、凝固剤として利用して植物油と水を乳化させたもので、肌につけたときに冷たい感触があるためコールドクリームと呼ばれています。
◆東洋における伝承医学の発達◆
アロマテラピーに大きな影響を与えたものに、インドのアーユルヴェーダ医学があります。アーユルヴェーダは本来伝承的に伝えられ、書物として成立したのは思想の成立よりずっと後になってのことだと考えられており、紀元前2000~3000年ごろに発生したと推測されます。
記録に残されたものとしての源流は、紀元前1200~1000年頃に編纂された『リグ・ヴェーダ』にみられます。ヴェーダとは「知識の書」という意味で、多くの神々をたたえ、神をまつる手順を詩の形式でまとめた聖典で、『リグ・ヴェーダ』はその最古のものです。ヴェーダにはほかに『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『アタルバ・ヴェーダ』などがあり、ヴェーダに記された多岐に渡る医学的知識が独立して、アーユルヴェーダが確立したといわれています。
医学的知識は10世紀以上の歳月を費やして、自然哲学全体を視野に入れた『チャラカ・サンヒター』と『スシュルタ・サンヒター』の二大古典医学書にまとめられました。また、この二つをまとめたものとして、『アシュタンガ・フリダヤ・サンヒター』があります。
『チャラカ・サンヒター』は、2世紀ごろカニシカ王に仕えた侍医チャラカがあらわしたといわれるもので、内科的考察に優れています。ヴァータ、ピッタ、カパの「3つのドーシャ説」が展開されていますが、これは体質、性質、年代、季節、時間、色などをこの3つの構成要素に分けてみていくものです。例えば、ヴァータは空と風、ピッタは火と水、カパは水と土の性質をもっているとされます。ヴァータ・ピッタ・カパの3つのドーシャがアンバランスになり、アグニ(消化の火)が失調するとアーマ(未消化物)が蓄積してスロータス(通路)が閉鎖され、病気になるとしています。
『スシュルタ・サンヒター』は3~4世紀ごろに成立したと推測されるもので、外科的考察が多くみられます。
★中国における本草学
中国では中医学、あるいは漢方と呼ばれる医学が発展してきましたが、基礎となったのが薬物について書かれた本草書です。その最古のものが2~3世紀の漢の時代にまとめられた『神農本草経』で、1年の日数に合わせて365種の生薬が収載され、上薬(不老延年の保健薬)・中薬(病気予防・強壮薬)・下薬(治病薬)に分類されています。これは、西洋の『マテリア・メディカ』と並ぶ東洋の薬学書といわれています。
陶弘景(456~536年)は5世紀末から6世紀初めにかけて、これにさらに注を加えて、730種の薬石を記した『神農本草経集注』7巻に再編纂し、今日に伝えられています。
★神農
神農とは、古代中国の伝説に登場する皇帝で、中国の農業・医薬・音楽・占筮・経済の祖神で、百草をなめて薬草を発見し、食べた時に体が冷えるか熱をもつか、またどんな香りや味をつけるのに適するかなどを調べたと伝えられ、医薬の祖とされています。また、発見した数々の有用な植物を育てる方法を人々に教えたということで、農耕の祖ともいわれます。
◆地中海世界、ヨーロッパ、アラビアにおける技術的発展◆
アロマテラピーの歴史上、大きな飛躍のもととなったのが、精油の蒸留法の確立です。それまでも精油の蒸留が行われた形跡はありましたが、技法としては確立していなかったようです。しかし、10世紀末から11世紀にかけて精油の蒸留法が確立されたことにより、良質で純度の高い精油が抽出できるようになり、利用範囲も広がりました。精油とその応用法は、ヨーロッパなどで行われていた僧院医学、さらにハーブ医学へと受け継がれ、発展したのです。これには、12世紀にアルコールの蒸留法が確立され、アルコールによって油性の基材を使わずに精油を希釈することが可能となったことも大きく影響しています。
精油の蒸留法は、錬金術と呼ばれる技術の中で完成されました。錬金術とは不老不死の霊薬や黄金を作り出す技術の研究を中心にしたもので、現代の「化学」の前駆的な役割を果たしました。その起源は古代ギリシア、ヘレニズム文化までさかのぼるといわれますが、ヨーロッパに定着したキリスト教世界では古代ギリシア文化を異端として排斥したために、錬金術も黒魔術的なものとして否定される傾向にありました。しかし、イスラム世界のアラビアでは肯定的に受け入れられ、大きく発展したのです。
このアラビアでの発明は、後に十字軍の遠征によってヨーロッパにもたらされ、医薬品や化粧品などのさらなる発展をもたらします。
★アラビアの医学
イスラム教圏で強大な国家となった7世紀ごろのアラビアでは、ギリシア・ローマ・ユダヤの医師を招いたり、ヒポクラテスやガレノスなどの著書を翻訳する、インドや中国の医学知識を取り入れる、医学校を建設する、というように医学の隆盛に力を入れました。
この時代には錬金術が大きく発展し、現在あるビーカーやフラスコなどの器具の多くはすでにこの時代に使われていました。
中世のアラビア世界は、科学の水準ではヨーロッパをはるかにしのぐ先進的な文化圏で、医学や化学の多くが、そしてたくさんの香料がアラビアからヨーロッパへともたらされました。
★イブン・シーナ(980~1037年)
イブン・シーナは医学に傾倒した哲学者で、アビセンナ、アビケンナ、アウィセンナとも呼ばれています。幼少のころより天才性を発揮し、18歳ころアリストテレス哲学を習得したのち独自の哲学を創りあげ「現存するものはすべて必然である」という存在論を展開しています。医学者としては、アラビアの医学に中国・インド・西洋の知恵を取り入れ、ユナニ医学と呼ばれる医学体系を作りました。じれぶちるイスラム医学が確立し、今でも伝統的医学として伝えられています。彼があらわした『医学典範』(カノン)は、ヨーロッパの医科大学の教科書として17世紀に至るまで長く使われました。
また、それまでの原始的な蒸留器を改造して精油の水蒸気蒸留法を確立しました。その最初の実験材料として選ばれたのはバラだといわれます。彼が確立した精油の製造と医学への応用は、アロマテラピーの原型といっても過言ではありません。
★十字軍の遠征と東西文化の交流
キリスト教・ユダヤ教・イスラム教がともに聖地としているのがエルサレムです。このエルサレムが1071年にイスラム教徒によって占領され、さらにビザンチン帝国が侵犯されたことにより、東方正教会防衛の必要が訴えられました(東方正教会とはビザンチン帝国で成立したキリスト教の三大教派の一つで、ギリシア正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会などの総称です。)。
これに対してローマ教皇は、エルサレムの聖墳墓(キリストが埋葬された墓)の奪還を最終目標として十字軍を派遣しました。十字軍遠征は、1095年の十字軍宣言から1291年のアッカー陥落までの期間に7回(8回ともいわれる)行われましたが、最終的には占領地をことごとく失いました。この間に多くの人々が地中海世界の東西と行き交い、文化交流が促され、東西のハーブや薬草、アラビアの医学や精油蒸留法などもヨーロッパに伝えられました。貿易の中継点として、イタリアなどに新たな都市も出現します。
また、西欧キリスト教徒たちにグローバルな視野の拡大をもたらし、異教徒との平和的共存が現実性をもちはじめたのです。サレルノ医科大学やモンペリエ大学などが生まれ、医学が盛んになったのも、さまざまな宗教的背景をもつ文化の交流が可能にしたことです。
★中世僧院医学とサレルノ医科大学
中世ヨーロッパでは教会や修道院を中心に、ギリシア・ローマ医学を継承した僧院医学と呼ばれる薬草中心の医学が行われていました。しかしこれは原則的には僧職者や特権階級のための医学で、一般人は自給自足で民間療法などを行っていたようです。それが、中世期半ば過ぎて新たな都市が現れ始めると、次第に職業としての医師が必要とされるようになりました。そしてサレルノとモンペリエの両都市が、医師の養成所として有名になりました。
サレルノはイタリアのナポリから60㎞ほど南の港町で、奇跡をおこすとされた聖人の遺品や遺骨が保管された修道院があったために難病人たちが集まり、医学に対して大きな需要がありました。また、領主が学問や文化を奨励しており、ギリシア・ローマ・イタリア・ユダヤの4つの文化が認められて多くの文化圏からその知識を吸収することができたために、医学が盛んに行われました。
サレルノは「ヒポクラテスの町」といわれ、10世紀にはフランスやイギリスの王族が養生に訪れるほど有名で、医学を教える施設も作られており、12世紀に最も栄えました。町の名を冠した『サレルノ養生訓』(「サレルノ健康法」)は、健康を保つ方法や病気についてなどを詩の形式で表したもので、ヨーロッパ全土に広まり、1050年設立のサレルノ医科大学のカリキュラムは、中世の多くの大学が規範とするほど優れていました。
また、1140年には領主のシチリア王によって、医師の国家免許ともいえる制度がはじめられました。「医療を行うものは、「試験を受けて合格することを要する」という意味の布告がなされ、医師開業に制限が加えられるようになったのです。
一方モンペリエは南フランスの地中海に面した交易の町で、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の共存が許されていました。モンペリエでは、ローマ教皇から許可を得て、1220年に医学教師たちのギルド(組合)が設立されています。また、領主による医師免許(開業許可)の制度も確立されていきました。1289年に医学校・芸術学校・法律学校を統合して編成されたモンペリエ大学では、国籍や宗教を問わず医学が教えられています。このようにして、モンペリエはサレルノをしのぐ医学の中心地となりました。
※医学者:幅広い意味で医学を研究している者の総称。医師免許の有無は問わない。むしろ医師免許を持たない医学者の方が画期的な発見や積極的な研究をしている。
医師:医師免許を持つ者の総称。勤務内容は問わない。行政機関で働く医師もいれば、病院で働く医師、大学で教員として働く医師などの他、タレント活動をしている医師もいる。
医者:臨床医の総称。目の前の患者さんが全て。
★パラケルスス(1493~1541年)
パラケルススは、ドイツルネッサンス期の錬金術師的化学者・医学者・思想家で、ガレノスやアラビア医学を批判して独自の考え方を展開し、近世医学の開祖といわれています。従来の体液病理説ではなく、天体因、毒因、自然因、精神因、神因の五病因説を唱え、古代以来の四元素、四体液などを5つの要因をもとにして再構築しました。また、数々の職業病や風土病を調査した結果、特に固体的沈殿要因の塩による病気、その他、精気的水銀の薬剤効果などから、鉱物的医化学薬品(鉱物を使った水薬)の開発を進めました。
パラケルススは錬金術と占星術について深い知識を持っており、フラスコの中で人工の生命体を作り出すという実験でも知られ、魔術師とも呼ばれます。彼は当時の医学水準を超えた治療を行って多くの病人を治しましたが、錬金術によって作った薬効の高い薬がそれを支えていたといわれています。彼の実証的かつ神秘主義的哲学的医術は、彼の死後さらに大きな思想となって開花し、パラケルスス主義として全ヨーロッパに広まりました。
また、タロットカードの「魔術師」はのモデルとされることもあります。
◆僧院医学からハーブ医学へ◆
中世ヨーロッパにおいて医学が学問的に確立されていくなか、精油やハーブを利用する技術が取り入れられ、16世紀ごろからハーブをはじめとする薬用植物の研究が盛んになりました。修道士にかわって、ハーバリストと呼ばれる人々の活躍が目立ちはじめます。精油やハーブを利用する医学は、今のアロマテラピーの原型といえるものです。
★ハンガリアンウォーター
中世ヨーロッパの僧院医学において、ハーブや精油、アルコールなどが用いられはじめたころの有名なエピソードに「ハンガリー王妃の水(ハンガリアンウォーター)」があります。
14世紀のハンガリー王妃エリザベートⅠ世は、若くして夫を亡くし、君主として長きに渡って善政をしいていました。ところが晩年近くなってきたとき、手足が痛む病気にかかり、政治もままならなくなってきたのです。気の毒に思った修道院の僧が、ローズマリーなどを主体として作った痛み止めを献上したところ、状態がみるみるうちによくなりました。化粧水としても使ったところ美しさもよみがえり、70歳を超えた彼女に、隣国ポーランドの40代(50代ともいわれる)の王子が求婚したというのですから驚きです。ハンガリアンウォーターは若返りの水として評判になり、今に伝えられています。
★修道院と香水
精油がアルコールと出会ったことで香水が生まれました。精油はアルコールで溶かされることで複雑な調合が可能になります。揮発するアルコールはさわやかさを肌に感じさせ、また香りをよく立ちのぼらせ、香りの変質も防ぎます。
修道院では薬草を栽培し、医薬品や薬草酒、香水などを作っていましたが、香水はおもに手を洗うためや医療用として使用されていたようです。12世紀、ドイツのベネディクト会の修道女ヒルデガルトがラベンダー香水を作りましたが、ほかにも各地の修道院でいろいろな香水が作られました。
◆16世紀ごろからのハーバリストたちの活躍◆
1500年代に入ると、ハーバリストたちが活躍して歴史に名を残しています。ディオスコリデスやイブン・シーナたちの古典的な書物をもとに、植物学、本草学、医学のさらなる発展の気運が高まってきたのです。
この時代に活躍した主なハーバリストたちが、ジョン・ジェラード、ニコラス・カルペッパー、ジョン・パーキンソンでした。
ジョン・ジェラードがロンドンのホルボーンに開いた薬草園は、当時のヨーロッパで非常に有名でした。彼は薬草園の植物を注意深く目録にまとめ、1597年に『本草あるいは一般の植物誌』をあらわしました。この書はその後に、薬剤師で植物学者のトーマス・ジョンソンによってかなり増補され、多くが新大陸アメリカへの移住者とともに大西洋を渡りました。
医師であり占星術師のニコラス・カルペッパーは、ラテン語で書かれた医学書を英語に訳して医学情報を一般の人々に広く伝え、当時の医師たちから独占で揺るがすものと怒りをかいました。また、水銀のような毒性のあるものを使用することに異議を唱え、自然のままの薬草を使用することや、自分の健康は自分で守ることを主張しています。1616年に出版された著作“the English Physitians”(『薬草誌』は369種の植物の特性や用途について記述したもので、新大陸への移住者が好んで携えた本です。
薬草やハーブに関する彼の知識は優れたものでしたが、記述は占星術的な内容を含んでいるため、今からみると滑稽に感じるところがあるのも否定できません。しかし、現代のアロマセラピストの中にも、この占星術的なムードをカウンセリングに利用し、エンターテイメント性をもたせる人々がいます。
ジョン・パーキンソンはハーバリスト、博物学者で、清教徒革命で処刑されたチャールズⅠ世に仕えるかたわら、1640年に『広範囲の本草学書』をあらわしましたが、これも新大陸へと大西洋を渡った書として有名です。
★香りは最高の消毒剤
中世ヨーロッパでは、ペスト、コレラ、天然痘などの伝染病が何度も流行し、特にペストは黒死病とおそれられ、ヨーロッパ全人口の3分の1が失われたほどの猛威をふるいました。病気の原因となるものは空気の中にあると広く信じられていたため、病気が発生すると、刺激のある匂いがするものを焚いて燻煙消毒することが推奨され、フランキンセンス、コショウ、ローズマリーなどが焚かれました。病室では香料を入れたろうそくがともされました。芳香物質はそのころの最高の消毒剤だったのです。精油を利用した治療も大いに行われました。
また、毎日風呂に入ったり服を洗ったりする習慣がなかったため、人々は香料を身体に振りかけたり、ハーブを身につけたり、床にまくなどしてにおいを抑えていました。ハーブや香木・香料などの需要は大変高かったのです。
★ケルンの水
17世紀末、イタリア人理髪師のフェミニスは一旗あげようとドイツの町ケルンに移り住み、1709年に「オーアドミラブル(すばらしい水)」を創出して売り出し、好評を博しました。甥のファリーナがその事業を引き継いでさらに拡大し、1714年に「エヒト・ケルニッシュ・ヴァッサー(ケルンの水)」という名で「オーアドミラブル」を引き継ぐ香水を創作しました。これは香水の歴史からみると最古の香水とされています。
1756年にはじまった七年戦争のおり、ケルンを占領したフランスの将兵がこの名だたる香りの水にすっかり魅了され、これを本国に持ち帰り、その名もフランス風に「オー・ド・コローニュ(ケルンの水を意味する)」と呼ばれるようになったのです。「オーデコロン」はその英語読みで、1742年に「オーデコロン」の名前で商標登録されました。
★宮廷から民衆へ
ヨーロッパ王侯貴族のあいだでは、香水や香料の需要は高いものでしたが、特にフランスの宮廷や特権階級のあいだでは、香料や化粧品、香水などがふんだんに使われていました。太陽王といわれ「朕は国家なり」の言葉で有名なルイ14世(在位1643~1715年)時代、フランスのプロヴァンス地方グラースでは香水産業が育成政策として行われました。グラースは現在でも香水の町として有名です。ルイ15世(在位1715~1774年)時代のベルサイユ宮殿では、毎日異なる香料を用いることがエチケットとされたため、香りの宮廷と呼ばれたほどです。フランス革命で処刑されたルイ16世(1774~1792年)の后マリー・アントワネット(1755~1793年)は、貴族のあいだに高価な匂い袋をはやらせました。
民衆のあいだに香水が広まったのは、フランス革命(1789~1799年)がきっかけです。特権階級のお抱えであった調香師たちが職を失い、一般大衆を相手に仕事を行うようになったのです。香水は当初高価な香水瓶に入れて売られていましたが、安価なガラス製の瓶が使われるようになってから、さらに一般大衆が求めやすいものとなりました。このころの香水は精油が原料で、合成香料が使われるようになったのは、19世紀の終わりごろからです。
◆近代化学の発展と精油の再発見、近代アロマテラピーの創建◆
17世紀末にフェミニスが発売した「オーアドミラブル」は、当初は香水としてだけでなく、医薬品(胃薬)としても利用されました。ハーブや薬草を原料にしたこのころの製品は、まだ医薬品・化粧品・食品などの区別が明確ではなかったのです。例えば、カクテルで用いるリキュールや傷の痛みにつけるチンキ剤はよく似たもので、しばしば医薬品と食品の両方に用いられていました。それが、近代社会が成立するにつれて医薬品や化粧品、食品に関する法律が作られるようになったため、各製造者たちは自らの道を選択し、それぞれ発展していったのです。
また、17世紀にはアリストテレスの四元素説が完全に否定され、18世紀後半から19世紀にかけて化学がめざましく発展しました。自然原料から単独の化学物質を抽出できるようになり、さらに、まったく異なる物質同士を反応させて、まったく違った物質を合成することが可能になったのです。このような化学の進歩とともに、精油のかわりに人工の化学物質が用いられるようになり、ハーブ医学は衰退しました。精油が再び見直されるようになったのは、20世紀に入ってからのことです。
★ガットフォセによる精油の再発見
精油の再発見はフランス人化学者で調香師でもあるルネ・モーリス・ガットフォセ(1881~1950年)によります。彼の父は香料店を経営し、ラベンダーやミントの栽培を支援しており、ガットフォセは香料の研究を行ってラベンダー精油の多様な可能性に関心を寄せていました。店を引き継いだガットフォセは、作業室で実験中に爆発を引き起こして両手と頭皮に火傷を負いました。とっさにラベンダー精油の効能を思い出し、火傷にそれをかけたところ、大変早く回復し、あとも残らなかったのです。彼はこの経験から精油の治療的効果に目覚め、研究に没頭しました。
アロマテラピーという言葉は、ガットフォセが1937年に出版した“Aromatherapie”『芳香療法』というタイトルの著作で使ったのが最初です。
時期をほぼ同じくして、1920年代にイタリアの医師ジョバンニ・ガッティーが、1930年代に同じイタリアのレナード・カヨラが、それぞれ精油の特性や心理的作用から、スキンケアへの応用という広い分野に渡った研究をしています。
★“Aromatherapie”『芳香療法』の出版年
ガットフォセのAromatherapie”『芳香療法』の出版年に関しては1928年説、1931年説、1937年説があります。1928年説は、R.ティスランドの著作『the Art of aromatherapy』の中で間違って書かれたようで、後に彼も別の書物で訂正しています。また続いてJ.バルネの著作『aomatherapie』の中で参考文献として1931年の記載があります。しかしながら、後年出版されたガットフォセの著作の復刻版に1937年の記載があることから本書では1937年説を採用しています。
★ジャン・バルネによる実践
このように、精油の薬理作用の研究としてはじまったアロマテラピーは、第二次世界大戦の勃発によって下火となりましたが、フランスの軍医ジャン・バルネ(1920~1995年)は、戦争の前線から送られてくる負傷者たちに精油や精油から作った薬剤を用いて手当を行いました。
1942年に第二次世界大戦中のドイツ戦線に従軍し、1950年から53年に第一次インドシナ戦争中のトンキンに滞在して負傷者の手当にあたった彼は、精油によって目を見張る成績をあげ、たくさんの臨床例を得たのです。そして抗生物質の使用に疑問を感じて精油の治療特性について研究を重ね、軍籍を離れた後の1964年に“aromatherapie”(邦訳『ジャン・バルネ博士の植物=芳香療法』)をあらわします。これは医学的にアロマテラピーを扱った最初の書物であり、第一線で活躍した外科医の著作として歓迎をもって迎えられました。この本によって本来の意味でのアロマテラピーがはじまったことにより、ジャン・バルネはアロマテラピーの創建者とみられています。
彼はまた「役に立つこと」「化学的領域にとどまること」に重点を置き、同業の医師や薬剤師たちに同意を求めるためのアロマテラピーの啓蒙に力を尽くしました。彼の著作や活動は、アロマテラピーの呪術的なイメージを一新した業績であると評価できるでしょう。
◆その後の学術的研究◆
1970年代に入ると、香りが神経症やうつ病に効果があることが知られるようになりました。ミラノの植物誘導体研究所のパオロ・ロベスティは、地元産のオレンジ・ベルガモット・レモンなどの柑橘類から抽出した精油とその加工品をこのような症状に用いると、非常に有効であることを発見しました。これは、香りの心理的・精神的効果の研究として有名です。また彼はミラノ大学の教授でもあり、大学で初めてアロマテラピーを教えたといわれています。
香りの心理的効果についての研究として有名なものに、日本の東邦大学名誉教授鳥居鎮夫博士((社)日本アロマ環境協会顧問2010年現在)のものがあります。鳥居博士は、随伴性陰性変動(CNV波)と呼ばれる特殊な脳波を調べて、香りの興奮作用や鎮静作用を研究しました。このときに使われた香りは、ラベンダーやレモンです。香りはごく微量で効果のあることや、嗅ぐ人の好みで効果が変わることなどにより、鳥居博士は「におい物質は薬のようにはたらくのではなく、嗅覚という感覚系の反応がもとになって生理的効果があらわれるのではないか」と示しています。彼はイギリスのアロマセラピストたちとの交流もあり、アロマテラピーの学術研究の先駆者として高い評価を受けています。
◆フランスにおける医療的な展開◆
フランスの先人たちによるアロマテラピーは、医療的なものでした。ルネ・モーリス・ガットフォセが精油の殺菌効果や治療的効果について研究し、ジャン・バルネは医師として殺菌効果を臨床に応用し、さまざまな薬理作用をほかの医師たちに伝えました。そのような伝統から、フランスでのアロマテラピーは薬理作用が重視され、メディカル・アロマテラピー(医療分野でのアロマテラピー)が主流となっており、医師や薬剤師により医療にいかされ、医師の処方により内服もされています。ベルギーやドイツもメディカル・アロマテラピーが中心です。
◆イギリスにおけるアロマテラピーのホリスティックな展開◆
イギリスでは、精油を使ったマッサージを中心とするホリスティック・アロマテラピーが主流となっています。ホリスティックとは「全体的」「包括的」という意味です。身体におこったトラブルを部分としてとらえるのではなく、心を含めた全身的・全人格的なものとしてとらえ、精油の力を借りて心身の健康を取り戻したり、維持していくのがホリスティック・アロマテラピーです。
この基礎を作ったのがマルグリット・モーリーで、それはロバート・ティスランドやシャーリー・プライスらに引き継がれ、1960~1980年代にかけてアロマテラピースクールの開設が進んで多くの専門家たちが育ちました。アロマセラピストたちにより、アロマテラピーは美容的なサロン、医療現場、福祉施設、カウンセリング現場などへと多彩に展開され、大衆化しました。
★マルグリット・モーリー(1895~1965年)
モーリー夫人の名で有名なマルグリット・モーリーはオーストリア出身の生化学者で、1950年代から60年代にかけて活躍し、精油の美容健康保持効果を世に広めた第一人者です。外科助手として働いているときに1838年出版という古い本『芳香物質おおいなる可能性』(シャヴァンヌ著…後年ガットフォセの先生になった人物)を読んでアロマテラピーに関心をもった彼女は、インド・中国・チベットの伝統的な医学や哲学を学び、精油がどのようにして神経系統にはたらくのか、心理面での均衡回復にどう利用するのか、どのような若返り効果をもつのかなどを研究し、精油を植物油で希釈してマッサージするという方法を示しました。これは、精神と肉体のアンバランスに対して、個人個人に適した処方によってバランスを正常化するという方法論を提示したものです。彼女はフランス・イギリス・スイスなどにアロマテラピー診療所を開設し、女優や裕福な女性たちが顧客となりました。
1961年に研究成果をあらわした“Le Capital-Jenunesse”(ル・キャピトル・ジュネス 邦訳『生命と若さの秘密』)を出版し、精油を使っての医学・美容療法の体験をのべ、精油について正しい知識を学ぶ必要があることを強調したモーリーは、1962年に美容の国際的な賞である「シデスコ賞」を受賞しています。この著作は1964年に英訳され、“the Secret of Life and Youth”というタイトルで出版され、イギリスのアロマテラピーに大きな影響を与えました。イギリスの多くのアロマセラピストが、彼女の研究成果を実践的に展開する方向に向かったのです。これが後に、イギリスにおけるホリスティック・アロマテラピーと呼ばれるものとなりました。
★ロバート・ティスランド
イギリスのアロマテラピーの研究者ロバート・ティスランドは、化学合成万能思考への反省と自然主義の復興、複雑化する社会病理におけるストレスや精神病理などの処方箋をアロマテラピーで示しました。彼は、ジャン・バルネやマルグリット・モーリーの業績を受け継ぎ、さらに古典的な植物療法などにも言及しながら、アロマテラピーを体系的な学問としてまとめあげ、1977年に“the Art of Aromatherapy”(『アロマテラピー〈芳香療法〉の理論と実際』)としてあらわしました。
これには古典的な植物療法や歴史、精油の治療特性や処方などがまとめられています。また、アロマテラピースクールの開設、協会の設立などにも関わり、今なお英国のホリスティック・アロマテラピー界のリーダー的存在として活躍しています。また、日本のアロマテラピーの発展にも大きな影響を与えています。
◆日本におけるアロマテラピーの紹介と普及◆
日本では、1980年代ごろからアロマテラピーに関する翻訳本が出版されはじめましたが、最初にジャン・バルネとロバート・ティスランドのニ大著作が翻訳されていることは、その後の日本におけるアロマテラピー研究の大きな助けとなりました。当初、ほとんどの情報は外国の著作に頼らざるをえませんでしたが、やがてイギリスを渡って直接アロマテラピーを学び、日本に紹介する先人もあらわれました。
また、芳香浴やトリートメントを中心にイギリス式のホリスティック・アロマテラピーがマスコミでも紹介されはじめ、そのナチュラル志向やファッション性が多くの人の共感を得たのです。1990年代ごろからは各地でアロマテラピースクールが開設されました。メディカル・アロマテラピーも注目を集めるようになり、補助療法として医療の現場でも活用されはじめました。
◆日本アロマ環境協会の設立◆
1995年は、アロマテラピーが急速にマスコミで紹介されはじめた年でした。また、年初に阪神淡路大震災が起こり、日本中が「癒し」に対して関心を高めた一年でもあります。一般の人がアロマテラピーへの興味を高まらせていくにつれて、精油の取り扱いや販売をめぐる安全性を知らしめる必要性が重要になりました。そのため、この年も暮にかかるころ、アロマテラピーを愛好・研究する人や関連企業の責任者たちのうち、津野田勲氏、栗崎小太郎氏、尾上豊氏、宇田川遼一氏、林真一郎氏、林伸光氏の6人が発起人となり、日本アロマテラピー協会設立の準備が進められました。
翌1996年4月、医学者、化学者、業界企業、セラピスト、愛好家など各界の人々が集結した中立の非営利団体の日本アロマテラピー協会(AAJ)として設立されました。AAJはアロマテラピーの啓蒙普及と資格制度の実施など、着々とアロマテラピーの社会的な基礎を固め、飛躍し続けました。
その後、2005年4月、環境省所管の法人認可を受け「社団法人日本アロマ環境協会」(AEAJ)として新たに発足し、現在41000名以上(2010年7月現在)の会員を擁する日本最大のアロマテラピー団体となっています。イギリスやアメリカなどの海外のアロマテラピー団体と友好関係にあり、国際的にも最も大きなアロマテラピー団体の一つとして知られています。